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野麦街道_尾州岡船

尾州岡船と呼ばれた牛稼。野麦街道は牛で荷物を運搬した。

 
野麦街道

冬の野麦街道を歩く工女達(昭和初期)

  
 
野麦峠の道

標高の高い峠道は、夏は涼しく心地よい。

 
野麦街道

出稼ぎの行進の様子を再現「野麦峠まつり」5月

 
 
峠近くにある地蔵堂

峠近くにある地蔵堂

 
 
隈笹と隈笹の実(野麦)

隈笹と隈笹の実。飛騨地方ではこの実のことを野麦と呼び、地名になっている。

 
野麦峠の景色

標高1672m/現在の野麦峠の様子

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野麦街道と野麦峠


 

街道の概要・解説

野麦街道(かつては飛騨道・善光寺道とも呼ばれていた)は古来より、東日本と西日本を結ぶ重要な道路として、また飛騨国と信濃国を結ぶ主要路であり、この街道から多くの歴史文化が生まれました。
 
中世には北陸と信州を結ぶ交易路として、能登で取れたブリ(鰤)を飛騨を経由して信州へと運ぶ道筋でもありました。信州では飛騨ブリとして珍重され、能登では1尾=米1斗の値段が、峠を越えると米1俵になると言われるほど貴重であり、野麦峠の麓ある奈川は運搬を担う人と牛の中継地として重要な場所となりました。野麦街道はブリ街道とも呼ばれ、江戸時代、尾張藩の庇護のもと発達した尾州岡船と呼ばれる牛による運送は、貴重な産業として奈川の地域を支えていました。
野麦街道のブリの輸送は、明治35年(1902年)に国鉄篠ノ井線が開通し、松本地方が鉄道で結ばれるまで続きました。
 
明治の初めから大正・昭和初期にかけて殖産興業の国策のもとで、当時の主力輸出産業であった生糸工業で大きく発展していた諏訪地方・岡谷へ、現金収入の乏しい飛騨の村々から大勢の女性たち(多くは13歳くらいの10代の少女)が、工女として出稼ぎのために野麦峠を越えることになりました。
この史実は、昭和43年(1968年)に発表された山本茂実(やまもと・しげみ)のノンフィクション『あゝ野麦峠』によって著述され、昭和54年(1979年)には映画化もされて全国的に有名になりました。

野麦街道イラストマップ
 

解説アイコン
野麦峠(のむぎとうげ)


 

このミュージアムの名称になっている野麦峠は、岐阜県と長野県の県境にあります。 (▶︎位置・地図はこちら)

 

難所として

標高1,672mの野麦峠は、かつて街道の中で最大の難所として知られていました。道は険しく荷物の運搬に馬が使い難かったため、傾斜に強い牛がもっぱら用いられていました。
冬は雪が深く天候も荒れることがあるため、およそ13km程の峠越えをするのに丸一日を費やすこともありました。多くの旅人が命を落としていたことから、江戸時代には地元住民が幕府に願い出たことにより、峠に「お助け小屋」と呼ばれる救護や休息のための小屋が(天保12年/1841年)建てられました。
(現在は、岐阜県側にあり、昭和45年(1970年)に古民家を移築した建物で、休憩や食事ができる観光施設になっています。)
 
明治から大正・昭和の時代にあっても、前記の工女達が一年間稼いだ賃金を持って故郷へと帰るために、年の暮れに雪深い野麦峠を越えて飛騨へと向かいましたが、遭難して命を落とした少女達も少なくなかったとのことです。

 
 

名の由来

名称の由来には諸説がありますが、峠に群生する隈笹(クマザサ)が10年に一度、麦の穂に似た実を付けることがあり、地元の人に「野麦」と呼ばれていたことから野麦峠として名前が定着した説が有力です。凶作の時にはこのクマザサの実を採って団子にし、飢えをしのいだと言われてます。
また山本茂実の小説には『就労先で妊娠して厳しい峠越えの最中に胎児を流産する工女も少なくなかった。故に野産み峠となり野麦峠となった。』との記述もあります。
 
 

現在

野麦街道は、長野県道・岐阜県道39号(奈川野麦高根線)となって、そのほとんどが舗装道路となっていますが、旧道の一部は当時のまま残されています。
岐阜県側は県立自然公園として旧街道を利用したハイキングコースが整備され、峠の資料館「野麦峠の館」「お助け小屋」などの観光施設があり、長野県側では県史跡として整備され、旧街道の一部1.3km程を保存しています。

プレゼンアイコン
歴史年表

資料アイコン
勝山裕康氏による年表

 

このページは、勝山裕康氏による「街道から生まれた奈川の歴史と文化」を中心に、各種情報や書籍記事を引用してまとめています。 (▶︎引用・参考文献の一覧はこちら)
出土した石器類
出土した青銅鏡

出土した石器や青銅鏡

製糸工場で働く工女
製糸工場で働く工女

馬頭観音

 
奈川の牛稼
尾州岡船の札

奈川の牛稼と尾州御用の札

  
五輪塔

南無阿弥陀仏の五輪塔

石室(遭難者を防ぐための避難施設)

石室(遭難者を防ぐための避難施設)

 
製糸工場で働く工女

岡谷の製糸工場で働く工女たち

工女_政井みね

左端が政井みね。

雪道を歩く工女たち

雪の野麦街道を歩く工女たち

縄文時代

紀元前1万4千年~紀元前10世紀頃

縄文土器が発掘された事実(26カ所)から、この時代より奈川の歴史は始まっていると考えられる。

平安時代

794年~

遺跡の発見により、再び歴史の舞台に人々が現れた。三戸平、学間、屋形原、奈良部、御堂原、北の原、洞の沢、天ヶ沢、一の沢 九遺跡
灰釉陶器(岐阜県東部地方で焼かれた物)が松本平でも多く出土している。
  竪穴住居跡 一の沢
  八稜鏡 御堂原(一般庶民の持てるものでは無かった。)
・太平洋側と日本海側を結ぶ通用路で両文化の交叉が見られる。
・安曇平とは交流が深く、特に梓川段丘地帯と結ばれていたものと思われる。
・黒曜石の分布を見ると、野麦や木曽谷を往来していたことが解かる。

戦国時代

文明9年(1477年)

このころ松本高山間は安房峠越え(入山・角ヶ平・大野川経由)鎌倉街道を専用。

永禄2年(1559年)

木曽義康飛騨からの進行に対し奈川に古畑孫助を配置

永禄3年(1560年)

飛騨三木氏の将桧田次郎衛門の勢、奈川・日和田(高根村)を侵略。古畑孫助・斉藤丹後、奈川の塞を固め三木氏勢を退け、日和田に赴き山村良候を援助。山村氏桧田氏の首を搔き三木勢を敗退せしむ。

元亀3年(1572年)

飛騨の江間勢野麦峠を越え奈川に侵入、古畑孫助は神谷藤左衛門・大平惣左衛門を率いて防戦。一部は敗北、田ノ萱与右衛門の応援、斉藤丹後の援兵あり、四十数名を撃退。2つの解釈がある。

天正18年(1590年)

奈川村木曽領に編入。飛騨城主金森長近、野麦道を大改修、牛馬通行可。

江戸時代

元禄4年(1691年)

飛騨高山城主金森氏転封につき、城取役人中山道経由寄合渡にて休憩。野麦峠を越え高山へ。(※転封:領地替えを命じられて移る事)

元禄6年(1692年)

奈川山から木曽以外への薪売却が許可となり、松本領へ移出。飛騨全域が幕府領となり高山に郡代を置く。代官は往還に当たり、藪原~境峠~寄合渡~野麦峠の道を取り、寄合渡に宿泊。このころ、既に奈川牛は上州倉賀野、越後直江津へ白木の輸送を行っていた。

宝永7年(1710年)

公儀巡検使(総勢30名、馬35疋)野麦峠を越え川浦で休息、寄合渡で泊。

享保9年(1724年)

この年に完成した『信府統記』に「ひだみち」として「本道」と「山道」の経路を記述している。

寛政2年(1790年)

飛騨郡代官所平湯番所を廃止し、安房峠越えを禁止。以降野麦峠越えが繁盛。

寛政12年(1800年)

大宝院書留の中の覚書。飛騨往還(木曽芝原から野麦まで)人足500人。*小木曽柴原か?

享和1年(1801年)

松本藩飛騨天領御用米として松本米106駄を送る。川浦までは奈川牛が運搬。

文化11年(1814年)

伊能忠敬測量隊一行、測量の為野麦峠を越え奈川入り寄合渡に分宿

文政8年(1825年)

藪原極楽寺住拙庵和尚、川浦に石室を造った永嶋(古幡)藤左衛門の美挙を称え、石碑を建立。松本立山講一行1,000人野麦峠を越え立山詣り。

文政9年(1826年)

飛騨益田郡市蔵、野麦街道近道の改修に着手。11年かけて完工。

文政10年(1827年)

野麦街道上ヶ洞番所の通行人(2月~6月)
  信州人 46
  越中人 37
  益田人 19
  吉城人 14
  大野  10 合計126 平均25.2

天保4年(1833年)

飛騨国年貢金(金箱5,6000両在中)、奈川に一泊し江戸表へ輸送。

天保5年(1834年)

奈川村有志川浦に比丘尼の墓を建立。

天保8年(1837年)

飛騨商人松本米を大量に野麦峠を越えて移入。(天保の大飢饉に際し?)

天保9年(1838年)

公儀巡検師3名、野麦峠を越えて奈川へ、同勢一人につき34人~38人。奈川村出費200余両。

天保11年(1840年)

飛騨高山大野屋重助、野麦峠に「南無阿弥陀仏」の5輪塔建立。

天保12年(1841年)

高山代官所、野麦峠に御救小屋(お助け小屋)を建て、大野屋重助とその妻を番人に任命。越中表(富山)の肴野麦峠を越えて松本に移入。

嘉永7年(1854年)

飛騨高山から野麦峠を越え上州(群馬県)倉賀野経由で江戸行の鉛780貫、馬22頭が輸送され寄合渡に宿泊。

明治時代

明治2年(1869年)

新政府鉱山巡検師、野麦峠を越えて高山入り。

明治4年(1871年)

廃藩置県。中南信と飛騨(旧高山県)は筑摩県へ編入。

明治5年(1872年)

筑摩県松本を県庁とし、飯田、高山、東京に市庁、福島に取締所を配置。

県庁松本と支庁高山との往還路として野麦街道・野麦峠の利用盛況。

明治7年(1874年)

郵便取扱所を開設(寄合渡、入山)。       

寄合渡=藪原~寄合渡

入山=松本~入山~野麦~高山

明治8年(1875年)

飛騨往還(松本・野麦峠・高山)飛州往還(藪原・奈川・高山)3等道路に指定。

明治9年(1876年)

筑摩県、長野県と合併し、飛騨は岐阜県に編入。

明治9~11年(1876年~78年) 

諏訪地方の蚕糸工場の増加がこの頃に集中しており、飛騨からの工女が野麦街道を通行するようになったのもこの頃と思われる。

明治18年(1885年)

野麦地蔵堂(高根村)安置。

明治20年(1887年)

この頃まで飛騨鰤野麦峠・権兵衛峠を越え伊那谷へ

明治42年(1909年)

政井みね 野麦峠頂上で20歳の生涯を閉じる。

明治44年(1911年)

中央線開通・松本回りと境峠回りに寄合渡で二手に分かれた。

明治45年(1912年)

神谷青年団横井市蔵に獅子舞を師事。

大正時代

大正6年(1917年)

この年から野麦峠越えの女工数激減。(製糸工場が名古屋方面に移転)

宝来屋 宿帳

大正5年=93人 大正6年=22人

大正9年(1920年)

野麦街道「県道松本高山線」と改称。

大正10年(1921年)

寄合渡天宮大明神獅子舞奉納開始。電話開通。

昭和時代

昭和9年(1934年)

国鉄高山線が全通。工女が野麦街道を通ることはなくなった。

 
 

※「街道から生まれた奈川の歴史と文化」より転載
 
 

別添資料

野麦峠の年表

扇屋の展示パネル「野麦峠のあゆみ」

 昭和63年に扇屋が現在の場所に移築し、保存展示館として竣工した際に製作された展示パネル。野麦峠を中心とした歴史を、日本や世界の動きとともに記述されている資料。
 
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尾州岡船の鑑札

用語解説

尾州岡船とは

関所を越えて自由に往来できた特別な鑑札

江戸時代、奈川は尾州に属していたので、尾張藩から「尾州岡船」の鑑札を受けて「中馬」の仕事をしていた。岡船とは中馬などのことで馬を使って荷物運びをする運送業である。しかし、野麦峠の道は険しいために馬は使いにくく傾斜地に強い牛がもっぱら用いられた。
 
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野麦街道イラストマップ

用語解説

野麦峠

野麦峠(のむぎとうげ)は、岐阜県と長野県の県境にあり、古くは飛騨国と信濃国を結ぶ野麦街道(江戸街道または善光寺道)と呼ばれている街道の峠の名称です。※イラストは旧奈川村・村政要覧に掲載されたものです。
 

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野麦峠の道(長野県により整備保存) 野麦峠から見た乗鞍岳 扇屋 扇屋内部 野麦峠まつり 宝来屋の展示