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野麦峠に関する用語索引
 
 
野麦峠(のむぎとうげ)
扇屋の外観
岐阜県と長野県の県境にあり、古くは飛騨国と信濃国を結ぶ野麦街道(江戸街道または善光寺道)と呼ばれている街道の峠の名称です。
野麦(のむぎ)
飛騨地方では、隈笹(クマザサ)の実を野麦と呼んでいる。 峠に群生する隈笹 が数十年に一度、の穂に似た実を付けることがあり、その風景から「野麦峠」と呼ばれるようになったとの説がある。 凶作の時にはこの実を採って団子にして飢えをしのいだ。

引用:Wikipedia

野麦峠まつり

野麦峠まつり
松本市奈川地域の主催により1983年(昭和58年)5月20日に第1回を開催して以来、
毎年5月に行われている催事です。

番所(ばんしょ)

高山・松本間の街道中におかれた番所は、飛騨側に上ケ洞口留番所、信濃側に川浦、大白川、橋場の4か所であった。この4番所は、幕府領飛騨、尾張藩領奈川村、松本藩の3つの領分にわたっており、その領分境でそれぞれの掟を通そうとした。 また、番所は五街道に置かれた関所にならったもので、「入り鉄砲に出女」の政策を引き継ぎ女性の通過には厳しかった。引用:Wikipedia

尾州岡船(びしゅうおかふね)
尾州岡船鑑札
尾州丘船とは、尾張藩によって牛仲間の組織と稼働を公認され、遠隔地輸送を行った奈川の牛稼ぎのことを言う。

徳川家康は、宿駅ごとに荷物を引き継ぐ宿駅伝馬制を本格的に整備しました。尾州岡船は、この宿次をせずに直接終着地まで荷物を運ぶことが出来る特権です。

当時の信飛一帯は、木材資源の豊富な地方であった。ここでの産物の白木類は早川から江戸へ送り出されていた。物資輸送は河川利用が自然に発達していたが、大河川の船着き場へ向けて最も陸送を短縮する路線が選ばれた。

一方、松本平は米の生産地で米不足に悩む飛騨へ早くから米の供給が行われていた。

田地がなく谷仕事がない山間の村は他にいくらでもあるのに奈川村がとくに発達を見たのは、飛騨と信濃を結ぶ野麦街道が村を貫通していたことと無縁ではない。さらに、その発展に牛仲間の組織と稼働を公認した尾張藩の庇護も見逃せない要因である。

奈川の牛稼ぎ_尾州岡船
当時、木曽谷で牛稼ぎに携わっていたのは、奈川村の他、宮越村、馬篭村で、奈川村の尾州岡船は規模が大きく、最盛期の江戸末期には牛方は八十名を数え、400頭を超える牛がいた。

これが中部圏全域にわたって稼働していたことは、全国的に見て特異とされている。

上州の倉賀野(現在の高崎市)が最も多く通ったところで、北は高田今町(現在の上越市)南は岡崎まで行っていた。甲州街道を通る江戸四ツ谷までのルートもあった。

牛は、真っ黒い雄牛で体は小さいが力がある佐渡牛であった。4歳の成牛を買いほぼ7年間使用された。

牛一頭に一駄(32貫 約120kg)の荷を着けて、一度に5頭の牛を追えて一人前と言われた。

(写真上は鑑札)

飛騨鰤(ひだブリ)

信州でお年取りや正月のお祝いに欠かせない鰤は、雪の野麦峠を超えて運ばれてきたものであり「飛騨ぶり」と呼ばれた。この鰤は富山湾でとれたものばかりでなく北海道のものも加わり、富山からは天秤で担がれ高山の市まで運ばれた。そこからは、多くはボッカの背により野麦峠を超え松本まで運ばれた。ボッカでの運送は、高山から松本まで8日を要し、松本向けには塩をさらに加え鮮度を保つ工夫がされていた。この鰤は高山では越中鰤と呼ばれ、松本では北の糸魚川からのものが多かったにも関わらず、飛騨鰤の名が残っている。諏訪に入ると松本鰤と呼ばれ転送の経路が知れるのである。松本で買う飛騨鰤は長いこと籾一俵の値段と釣り合っていた。

ルート

信府統記によると、野麦街道の「本道」を松本城下から木曽谷に入り藪原から寄合渡を通って野麦峠を越えるルートとしており、「山道」として松本から稲核(いねこき)に達し、入山(にゅうやま)・角ヶ平・大野川・平湯・久手村・はちが峠・足立を通過して高山に向かうルートを紹介している。現在の国道158号と同じく安房峠(現在はトンネルであるが)を通るルートもあり、また脇道もあった。なお、ここで言う本道は道程31.5里、山道は25.5里、梓川まわりの野麦道は26.5里であった。

現在では、松本から橋場・稲核を経て奈川渡(大白川・入山)に行き、そこから黒川渡・寄合渡・川浦を通り野麦峠に達するのが野麦街道の長野県側部分だと考えられている。江戸時代の中ごろ以降は、飛騨道はもっぱら野麦峠を通るようになった。

信府統記(しんぷとうき)

信濃国(長野県)松本藩主の命によって編纂され、1724年(享保9年)12月に完成した、同藩内および信濃国内の地理・歴史を記述した書籍(地誌)である。

お助け小屋
お助け小屋の外観
1841年(天保12年)に、高山の飛騨郡代により作られた遭難者救助の施設で、重吉(明治10年ころまで生存)が住みこんでいた。現在のお助け小屋は1978年に竣工したもので、岐阜県高根町の観光施設となっている。
石室
文政八年秋八月(1825年)毎年ある凍死者を救いたいと、奈川下郷の庄屋永嶋藤左衛門が、半地下の石室の避難小屋を作った。この美挙を聞いた木曽薮原の禅寺極楽寺の住職拙庵が功績を称えるとともに、仏の加護を願って石碑を立てた。現在の石室は昭和62年12月に再建されたもので、全て石組みで作られており、江戸時代末期より奈川の主要な産業であった炭焼きの炭窯の工法で建造された。
扇屋
扇屋の外観
江戸時代後期、松本と飛騨高山を結ぶ野麦街道沿いの集落、旧奈川村川浦に旅人宿として建てられました。明治から大正にかけては、飛騨地方から諏訪・岡谷の製糸工場へ向かう工女たちが大勢宿泊しました。

松本市(当時奈川村)の歴史資料として現在の場所に移築され、使われていた当時を再現した展示館となっています。館内には、飛騨と岡谷・諏訪との峠越えをした製糸工女たちの姿と、この地の特産「わらび粉」作りの作業姿や、尾州岡船「奈川牛」の道中姿も再現されています。

宝来屋
宝来屋の外観
松本市重要文化財

江戸時代後期、松本と飛騨高山を結ぶ野麦街道沿いの集落、旧奈川村川浦に旅人宿として建てられ、明治から大正にかけては、飛騨地方から諏訪・岡谷の製糸工場へ向かう工女たちが大勢宿泊しました。山里の民家としての暮らしもうかがえます。

旧所在地/松本市奈川川浦 から昭和58年に現在の博物館に移築復元され、現在は松本市立博物館分館・松本市歴史の里に展示されています。

牛つなぎ石

松本市伊勢町と本町の分岐点の道路角に「牛つなぎ石」と呼ばれる石があり、荷を背負わせて来た牛をこの石につないだもので、ここが野麦街道の終着点であったとも言われる。しかし、この石は、市神のご神体であったとも考えられ、真偽は定かでない。Wikipediaより引用

文学『あゝ野麦峠』(ああのむぎとうげ)

山本茂実が1968年に発表したノンフィクション文学。副題は「ある製糸工女哀史」。初版は朝日新聞社刊。1972年に新版が刊行されている。明治から大正にかけて、岐阜県飛騨地方の農家の娘(多くは10代)たちが、野麦峠を越えて長野県諏訪岡谷の製糸工場へ働きに出た。吹雪の中を危険な雪道を越え懸命に就業した。大日本帝国富国強兵・殖産興業の国策において、有力な輸出貿易品であった生糸の生産を支えた女性たちの姿を伝えた。山本は執筆に当たり十数年におよび飛騨・信州一円を取材し、数百人の女工・工場関係者からの聞き取りを行った。

人物索引

山本茂実(やまもとしげみ)作家
山本茂実
1917年2月20日生〜1998年3月27日没。日本の小説家。1948年(昭和23年)に雑誌「葦」を創刊。1968年(昭和43年)「あゝ野麦峠 - ある製糸工女哀史」を発表し、250万部のベストセラーとなった。
政井みね(まさいみね)
1888年2月3日 生〜1909年11月20日没 日本の近代化を陰で支えた労働者の一人であり、かつて野麦峠 を越えた工女を語る際に欠かせない人物である。山本茂実の「あゝ野麦峠 - ある製糸工女哀史」に登場し、映画化によって広く世に知られるようになった。

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引用・参考文献の一覧

List of References

引用・出典

 

歴史博物館資料
工女宿宝来屋と奈川

松本市歴史博物館2013年9月28日発行冊子。

奈川村政要覧
奈川村村政要覧

1987年(昭和62年)/旧奈川村発行

参考資料名

編集中です

 

参考文献

 

野麦街道の民話_表紙
私たちの調べた野麦街道の民話(奈川編)

昭和54年6月20日/長野県美須々ヶ丘高等学校文芸クラブ・征矢野宏・細川修/松本市奈川公民館発行。

書籍名

工事中

書籍名

工事中

 

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