用語/名称の解説
野麦峠(のむぎとうげ) |
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野麦(のむぎ) |
飛騨地方では、隈笹(クマザサ)の実を野麦と呼んでいる。
峠に群生する隈笹
が数年に一度、麦
の穂に似た実を付けることがあり、その風景から「野麦峠」と呼ばれるようになったとの説がある。
凶作の時にはこの実を採って団子にして飢えをしのいだ。
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野麦峠まつり |
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番所(ばんしょ) | 高山・松本間の街道中におかれた番所は、飛騨側に上ケ洞口留番所、信濃側に川浦、大白川、橋場の4か所であった。この4番所は、幕府領飛騨、尾張藩領奈川村、松本藩の3つの領分にわたっており、その領分境でそれぞれの掟を通そうとした。 また、番所は五街道に置かれた関所にならったもので、「入り鉄砲に出女」の政策を引き継ぎ女性の通過には厳しかった。引用:Wikipedia |
奈川の牛稼(ながわのうしかせぎ) |
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尾州岡船(びしゅうおかふね) |
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飛騨鰤(ひだブリ) | 松本地方では、野麦峠を越えて高山からもたらされる鰤を「飛騨鰤」と呼び、「年取り魚」として重要視されたのである。元来、富山(越中)から高山まで運ばれたものなので、高山では「越中鰤」と呼ばれていたものであった。飛騨地方で消費される鰤を、松本地方の商人が高山の市場で拝み倒すように分けてもらっていたが、やがて松本地方で消費される事を見越して、越中で獲れた段階で、松本まで鰤の鮮度が保たれるように、より多くの塩で漬けられるようになった。 |
ルート | 信府統記によると、野麦街道の「本道」を松本城下から木曽谷に入り藪原から寄合渡を通って野麦峠を越えるルートとしており、「山道」として松本から稲核(いねこき)に達し、入山(にゅうやま)・角ヶ平・大野川・平湯・久手村・はちが峠・足立を通過して高山に向かうルートを紹介している。現在の国道158号と同じく安房峠(現在はトンネルであるが)を通るルートもあり、また脇道もあった。なお、ここで言う本道は道程31.5里、山道は25.5里、梓川まわりの野麦道は26.5里であった。 現在では、松本から橋場・稲核を経て奈川渡(大白川・入山)に行き、そこから黒川渡・寄合渡・川浦を通り野麦峠に達するのが野麦街道の長野県側部分だと考えられている。江戸時代の中ごろ以降は、飛騨道はもっぱら野麦峠を通るようになった。 |
信府統記(しんぷとうき) | 信濃国(長野県)松本藩主の命によって編纂され、1724年(享保9年)12月に完成した、同藩内および信濃国内の地理・歴史を記述した書籍(地誌)である。 |
お助け小屋 |
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石室 | |
扇屋 |
松本市(当時奈川村)の歴史資料として現在の場所に移築され、使われていた当時を再現した展示館となっています。館内には、飛騨と岡谷・諏訪との峠越えをした製糸工女たちの姿と、この地の特産「わらび粉」作りの作業姿や、尾州岡船「奈川牛」の道中姿も再現されています。 |
宝来屋 |
江戸時代後期、松本と飛騨高山を結ぶ野麦街道沿いの集落、旧奈川村川浦に旅人宿として建てられ、明治から大正にかけては、飛騨地方から諏訪・岡谷の製糸工場へ向かう工女たちが大勢宿泊しました。山里の民家としての暮らしもうかがえます。 旧所在地/松本市奈川川浦 から昭和58年に現在の博物館に移築復元され、現在は松本市立博物館分館・松本市歴史の里に展示されています。 |
牛つなぎ石 | 松本市伊勢町と本町の分岐点の道路角に「牛つなぎ石」と呼ばれる石があり、荷を背負わせて来た牛をこの石につないだもので、ここが野麦街道の終着点であったとも言われる。しかし、この石は、市神のご神体であったとも考えられ、真偽は定かでない。Wikipediaより引用 |
稲核(いねこき)の夏道・冬道 | 概要の通り、江戸時代にはルートは複数あり、脇道もあったが、明治時代になって現在の国道158号-長野県道・岐阜県道39号奈川野麦高根線-国道361号にあたる道路が野麦街道として整備された。この時に新設され、江戸時代とは異なるルートをとるようになった部分や、さらにその後の国道整備によって変更された部分も多い。 その1つが、橋場(雑炊橋)-稲核間の3.5kmである。この部分の梓川は、両岸が切り立った岩石地帯と崩落地帯で、人馬の通行を許さないものだった。 そのため野麦街道は、梓川右岸の梨子平を通過していたが、この道は牛馬も困難をきたすほどで、荷馬車の通過は不可能であった。そこで、地元の安曇村は、1903年(明治36年)に梓川左岸に、4年がかりの苦難の末に道路を開削した。これにより既に白骨・大野川までの道路が完成していたので、奥地まで荷馬車が通れるようになった。 同様に、橋場(雑炊橋)-波田間でも梓川右岸に道があったが、そこには「かぎかけ山」という険阻があった。しかし、この部分の左岸は平坦で大野田という村落があるほどだった。そこで、梓川の冬の渇水期だけの冬橋を架けていた。橋は春の雪融水が出る前に取り外して保管し、冬になるとまた架けていたのである。 冬季に使用されるこのルートを「冬道」と呼び、かぎかけ山を越すルートを「夏道」と呼んだ。この「大野田冬橋」も、1870年(明治3年)に新淵橋に取って替わられ、野麦街道もまた島々から大野田にかけては左岸を通り、新淵橋で右岸に渡り松本に向かうようになった。Wikipediaより引用 |
文学『あゝ野麦峠』(ああのむぎとうげ) | 山本茂実が1968年に発表したノンフィクション文学。副題は「ある製糸工女哀史」。初版は朝日新聞社刊。1972年に新版が刊行されている。明治から大正にかけて、岐阜県飛騨地方の農家の娘(多くは10代)たちが、野麦峠を越えて長野県の諏訪、岡谷の製糸工場へ働きに出た。吹雪の中を危険な峠雪道を越え懸命に就業した。大日本帝国の富国強兵・殖産興業の国策において、有力な輸出貿易品であった生糸の生産を支えた女性たちの姿を伝えた。山本は執筆に当たり十数年におよび飛騨・信州一円を取材し、数百人の女工・工場関係者からの聞き取りを行った。 |
人物索引
引用・参考文献の一覧
List of References
引用・出典
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松本市歴史博物館2013年9月28日発行冊子。 |
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1987年(昭和62年)/旧奈川村発行 |
参考資料名 | 編集中です |
参考文献
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昭和54年6月20日/長野県美須々ヶ丘高等学校文芸クラブ・征矢野宏・細川修/松本市奈川公民館発行。 |
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書籍名 | 工事中 |
書籍名 | 工事中 |
取材協力
ご協力者名 | 野麦峠ミュージアムの制作取材にご協力いただいた方々です。 |
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お名前(ふりがな) | 工事中 |
お名前(ふりがな) | 工事中 |
団体名(ふりがな) | ご協力ありがとうございました。 |
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